いい走り。いい生き方。速読術

晴れときどき速読術

とあるセミナー講師から、速読術セミナーの開催通知メールが届きました。

その人はいくつかある自身のレパートリーのうち、速読術セミナーは年一回しか実施しないそうです。

去年の開催は、その人を知ったばかりの時でギリギリ間に合わず……

今年は1年越しの想いが結実するか。是非突撃したいです。

以前、僕が速読に興味があることをこのブログに書いたら、
「それは『知識を得なければならない』という、恐怖の感情からくるものでは?」
と指摘を受けたことがありました。
このことが僕自身引っ掛かっていたのですが、きょうセミナー開催メールを見て、直感的に「これは前向きのワクワクだな」と思いました。

たぶん自分自身の真の能力が開花するところが見たいのだな。

「能力が開花した自分を評価してほしい」という承認欲求があることは否定できないけど、どちらかというと変化・成長していく自分を観察したいところが強いようです。

今年は残念ながら横ばい(いい意味でも)な1年になりそうなので、来年は読書をトリガーに人生のベクトルを少しずつ変えていきます!

ジワジワと今から楽しみ!
果たして行けるのか!
自作ボケて

は、お休みします

あまりに速読術的

❏ 愚かしい錯覚
そこに銀行の建物があれば、経済効果(利益)を生んでいるものと錯覚してしまう。そこに大学の建物が見えれば、研究成果(発見や開発)や教育効果(教員と学生の成長)があると期待してしまう。いったい日本は、いつまでこのような茶番劇を続けていくつもりなのであろうか? 刮目して見て欲しい。この顕著な凋落ぶりを見よ・・なのだ(代わりに、中国の躍進ぶりを・・)。 この急な体たらくさ、日常的に高校生と文献検索をしてきても感じてきた体感の再確認となった。実際、日本社会も綻びだらけだろう。綻びが、遂に破れることを「破綻」という。     週刊『東洋経済』特集「大学が壊れる」(2/10) ❏ 塾や予備校講師を再生産日本で自由度の高い通信制高校で、実際に中3(放課後プレスクール)から高3までの実在する生徒を対象に、あるべき「教育デザイン」を研究開発しつつ、実践活動をしてきた。その結果、日本の高校教育課程と大学入試で問われる中身を吟味し、高校と大学は何を社会に実現しようとしているかを大胆に指摘すれば、それは社会を塾や予備校講師を最優先に供給するように設計されてきたことが一目瞭然である。例えば、その手の教育産業が生み出す貨幣価値を知りたければネットで弾き出せる。一つの運営会社で億単位の価値を創出している。が、どうみても花も実もつけない徒花だ! 日本社会に対する経済効果も、単なる着太り効果なだけである。

❏ 大学に研究と入試の両立は無理(大学と高校の乖離)はい。昔は大学教授が大学受験ラジオ講座で解説したり『傾向と対策』本を執筆したり、参考書を書いていられました。特に、私が卒業した都立大学にはたくさんいましたね。地理学の矢沢大二先生は生前、お宅に招いて戴くほど可愛がって戴きました。でも、あれから40年が経ちます。もう時代が変わりました。もう無理ですよ。確かに時間は連続していますけれど、時代認識は不連続であるべきでしょう。だからエポック(epoc)と区切りをつけて時代を認識する不連続な発想をするのかを考えるべきです。なぜ頭を切り替えられないのでしょうかね。 時代は変ったのです。私が2000年に英国の大学へ博士号を狙いに行った時、研究室の共用PCから”Web of Science”のサイトを使うと一つの論文を誰がどの雑誌に引用されているのか一目瞭然なシステムが構築されていたのでホント、驚きました。日本にWoSが入ったのは数年は遅れたと思いますし、私が2006年に信州大学の研究室に間借りさせて戴き、大学図書館からWoSを繋いだ時には、いつくか警告が出されたので驚きました(例えば、連続してのダウンロード制限など)。英国では、そんな規制は一切、ありませんでした。第一、一つのテーマを追いかけたかったら矢継ぎ早に検索し捲くった方が、パタパタ漫画のアニメーションを眺めるように当該テーマの全貌が把握できて便利なモンです(総説のレビューを読むこと以上の効果)。私はこの訓練で英文を「タン、タン、タン・・」というリズムで瞬時に要・不要を分別していく識別力がつき、ひいては(推測を含む)読解力の育成に役立ちました。日本ってホント、お金を巻き上げられた上に今もなお、不平等条約の下で暮らしているんですよ。 だから今も、40年前と変わらない英語教育を行い、英文の速読術が身につくチャンスもなく、外国に水を開けられてしまい、その事実すら知らないので”古式に則った入試選抜を後生大事に続けてきてしまっている”のでしょう。 ❏プロポーザル(申請書)を書かせる課題を入試に一般国民はいまだに古臭い「偏差値」で大学の価値判断を下しているのでしょうが、現代の大学は所属する研究者が生産する学術論文の質と量で一義的には評価されます(知財に関しては一定期間は公表できないので別途、留意が必要です)。それなら、大学入学者のうち研究者を目指すグループとそうでないグループとに分けて教育した方が、大学のためにも大学生のためにもなると思います。つい一昨日、私の生徒(一部、中3生を含む)は研究プロポーザルを一緒に作る申請書づくり作業をしていました(研究テーマのリストは、コチラ)。 日本の大学から世界に伍する研究業績をあげていくためには、高校生のうちから問題意識を育て、研究費を申請するプロポーザルを書く訓練を積んでいくことが必要で、それを入試問題にしたら大学入学後にスムースに研究活動がスタートできます。一流の企業が消滅していくような事態を回避するためには、高校と熟では教える内容が同一の時間と経費を二重の浪費ですから即決で廃止し、中・高生のうちから研究活動の予熱をしておくことが、既に世界水準と較べて著しく周回遅れとなっている日本に必要な処方箋ではないのでしょうか? ❏ 大学入試に違法性の疑い極論に聞こえるようなら、別の切り口を提示します。学校教育法上、高校生は教員免許を持つ高校教員が指導します。大学教授は博士号を持ちますが通常、教員免許を持ちません。ここで、気づきます。教員免許を持つ高校教員が育てた高校生を、教員免許を持たない大学教授が、しかも高校課程の内容で判断して「合否判定する」ことに無理はないのでしょうか? 問題ないと・・? それなら全ての大学教授に高校課程を教えるに相応しい教員免許を持つように法改正して強制したらよろしいですね。研究業績は今以上に落ち込むこと請け合いです。さて、高校課程の勉強って、ホントに大学教育に必要なのでしょうか? それならば、全ての大学卒業者でも大学院修了者でも、学士・修士・博士の学位授与の要件として再度、大学入試問題を課してみたらいかがでしょう。 はい。答えは明確です。高校教育課程は、ホントに高校生を育てることを真摯に設計したのでしょうか? 私は強く疑います。私は日本の上水試験方法にある培地を選定するに当り、当時、集められた10種類の培地を全て実験してみました。その中には全く使い物にならない日本の培地の処方もありました。真摯に成果を確認していないまま収録するというコトは、残念ながらこういうことなのです。日本の試験法には「見込み」で書かれた詰めの甘さが目立ちます。米国の標準法は明らかに古めかしい処方のままでしたが、比較的良い結果でした。ですから十分に検討した上で敢えて残したことが知れます。決していい加減な甘い判断ではなかったのです。さすがと言うほか、ありません(竹内)。